|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field ・ 中 : [なか] 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among ・ 軍 : [ぐん] 1. (n,n-suf) army 2. force 3. troops ・ 軍人 : [ぐんじん] 【名詞】 1. military personnel 2. soldier ・ 人 : [ひと] 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1
田中 勝(たなか かつ、1911年(明治44年)1月16日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、昭和初期の陸軍軍人。最終階級は砲兵中尉。 二・二六事件に参加し、処刑された人物として知られている。 == 生涯 == 山口県下関出身。幼い頃に実母と死別する。熊本陸軍幼年学校を経て、1933年(昭和8年)に陸軍士官学校を卒業。陸士在学中に肋膜炎を患ったため、卒業は一期遅れの45期である。この頃より革新思想への傾斜が顕著となり、養母・信子から磯部浅一との面会を止めるよう忠告される〔澤地1975 p.24〕。1935年(昭和10年)に砲兵中尉となる。同年12月27日、又従妹の平山久子〔久子の実弟はプロ野球選手の平山菊二(澤地1975 p.24)〕と結婚〔澤地1975 p.15〕。同年末に小岩に転居する。 1936年(昭和11年)2月以降、蹶起(決起)の打ち合わせのため、自宅を空けることが多くなる〔澤地1975 p.16〕。夫妻で過ごす最後の夜となった2月24日には磯部浅一との打ち合わせに新妻を伴ったことが、磯部の記録に残されている〔澤地1975 p.16〕。2月26日、二・二六事件において、下士官12名に夜間自動車行軍と靖国神社参拝を名目に、野戦重砲兵第7連隊の下士官12名を率いて市川を出発。この際、26日午前3時頃、東京三宅坂への移動途中に自宅に立ち寄っている。靖国参拝、宮城遥拝の後、午前5時ごろ、自動車隊は陸相官邸に到着し、渡辺錠太郎教育総監及び東京朝日新聞(現朝日新聞東京本社)襲撃の部隊輸送に関与した〔澤地1975 p.18〕。 同年7月5日陸軍軍法会議にて叛乱罪の罪で死刑判決を受た。7月7日、面会が許可されて妻及び家族と面会し、妻の懐妊を知る〔澤地1975 p.19〕。田中の本心を感じ取れなかった妻はもう一度一人で面会に現れ、田中はこれを喜ぶとともに「お前のことを考えたら、おれ、死にきれねえ」と心情を吐露した〔澤地1975 p.19-20〕。7月12日、銃殺刑に処された。満25歳没。 久子夫人は実家の下関に身を寄せ、同年10月に男児が誕生した。田中は遺書の中で、子の名前と、将来は「国家の干城」となすよう(=軍人にするよう)記していたが、息子は河野壽の兄・司の紹介でサラリーマンになった〔澤地1975 p.25〕。久子夫人は資格を取り、幼稚園教諭となり定年まで勤めた〔澤地1975 p.18〕。養母・信子は、勝の父の死去後、出家し円信尼となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中勝 (軍人)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|